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大変な思いをして、マヨルカ島へ、スペイン経由南仏経由でノアンへ。ある意味ショパンはそれだけの旅ができる体力があったのでしょうね…。でもその期間に生み出された曲は、天国的なものと地獄的な何かを訴えかけるものとが混在していて面白いです。バラード2番は、バラードの中ではショパン的ではないと言われることも多いです(シューマンを意識して書いたからか?)。なんだかしょんぼり終わる感じもマヨルカ島滞在と関連があるのかなとか、プレリュード最後の曲の最後訴えかけるようなレの音も何かうまくいかないことへの気持ちなのかなとか、考えてしまいます。迷信深いスペインと、合理的なフランスの差も見られてとても充実したお話でした。次回も楽しみにしています。
ショパンは本来体力のある人だったはずだ、とリストも書いてましたね。作品を演奏したり、聴いたりするときに、このお話が想像する楽しみを添えられているとしたらとても嬉しいです。サンドの描写力は流石にずば抜けてますね。
いつも魅力的な声と隅々まで行き渡った解説…有難うございます🙏💖特にショパンは私の大好きな作曲家で今も果てし無く難しいソナタの3番を練習しているので😂、ショパンの生涯にはとても興味がありますこの頃の移動の凄まじさ、とても伝わってきます😢今なら特急列車や新幹線でひとっ飛びのところを馬車とは…😢今の時代ならショパンももっと長生きできたでしょうに、でも、皮肉なことにそんな過酷な時代だったからこそ、あのように研ぎ澄まされた闇と光と天国感漂う曲が創造されたのかもしれませんね…
馬車移動は想像を絶する寒さでしょうし、昔の移動の大変さがしのばれます。ただまだ蒸気船があるからマシですね。18世紀以前は帆船、すべては風次第。抗生物質があれば彼も死なずに済んだのに…。
サンドとともに暮らした日々、そのあともショパンは天使のような音楽を作り続けましたね。サンドはショパンに必要だったのかしら?とりあえず少しは寿命が伸びたのか縮んだのか…よくわからない関係です。今、即興曲2番を弾いているのですが、ブラームスの晩年の作品みたいに美しいです。不思議です。
別れて2年ちょっとで亡くなってしまったんですよね。しかも別れた半年後からイギリスツアーが始まり、作曲どころでなくなり、秋には起きられない状態になってましたし、別れた後にチェロソナタを完成させた後は大きな作品はほとんど書いてないと思います。いま最終回まで動画をせっせと作っていますが、やはり1840年代のサンドのもとにいた時期が一番充実していたんだなぁと思ってるところです。
私の祖母(既に亡くなっております)が、音楽と体育の教師だったそうですが、祖母が学生の頃は戦争中で、本当は音楽体育大学(現在で言うどの大学になるかは存じ上げません)へ進学したかったそうですが、当時は女で一つで東京へ出して貰える時代ではなかったそうです。私もピアノを少々習いましたが、エリーゼのためにを完全に(最初から最後まで)弾けるよになった時点で、自分には才能がないと悟りました(苦笑)。
立派なお祖母様だったのですね。ピアノは続けておられますか?
フランスで、ショパンが結核のために差別を受けていたという話は知られていませんが、しかしこれは意図的に伝記から削除されていた可能性があります。ショパンがマヨルカ島で酷い扱いを受けたことは史実なのだろうと思いますが、マヨルカ島の人々「だけが」とくべつ酷い対応をショパンにしたかのような説明は不公平かもしれません。当時、結核が伝染病であることはフランスやその他の地域でも知られており、どこへ行っても似たような状況だったはずです。そんな結核差別の中、献身的に何年も看病したジョルジュ・サンドは偉い人だったと思います。
やはりフランスでも結核に対する警戒心はあったんですね。サンドの言葉を拾っていく中でその点があまり見えてこず、ずっと不思議でした。ただ、スペインのほうが保守的な価値観だったように思うので、サンドのように女が諸事を差配することに抵抗感があったのだろうか、とか、フランスに入れば彼女の家名の威力も効かせられるので親切な扱いを受けられたのかもしれない、などとも想像していました。この時点でショパンはまだ結核ではなかったとの判断が出たこともあったようで、診断基準の違いもフランスとスペインであったのかもしれません。有益なコメントをありがとうございました。
悲惨過ぎて見るのが辛いです‥😨
最初からノアンかマルセイユにいればよかったのに…と思っちゃいますね
大変な思いをして、マヨルカ島へ、スペイン経由南仏経由でノアンへ。ある意味ショパンはそれだけの旅ができる体力があったのでしょうね…。
でもその期間に生み出された曲は、天国的なものと地獄的な何かを訴えかけるものとが混在していて面白いです。バラード2番は、バラードの中ではショパン的ではないと言われることも多いです(シューマンを意識して書いたからか?)。なんだかしょんぼり終わる感じもマヨルカ島滞在と関連があるのかなとか、プレリュード最後の曲の最後訴えかけるようなレの音も何かうまくいかないことへの気持ちなのかなとか、考えてしまいます。
迷信深いスペインと、合理的なフランスの差も見られてとても充実したお話でした。次回も楽しみにしています。
ショパンは本来体力のある人だったはずだ、とリストも書いてましたね。
作品を演奏したり、聴いたりするときに、このお話が想像する楽しみを添えられているとしたらとても嬉しいです。
サンドの描写力は流石にずば抜けてますね。
いつも魅力的な声と隅々まで行き渡った解説…有難うございます🙏💖
特にショパンは私の大好きな作曲家で今も果てし無く難しいソナタの3番を練習しているので😂、ショパンの生涯にはとても興味があります
この頃の移動の凄まじさ、とても伝わってきます😢今なら特急列車や新幹線でひとっ飛びのところを馬車とは…😢
今の時代ならショパンももっと長生きできたでしょうに、でも、皮肉なことにそんな過酷な時代だったからこそ、あのように研ぎ澄まされた闇と光と天国感漂う曲が創造されたのかもしれませんね…
馬車移動は想像を絶する寒さでしょうし、昔の移動の大変さがしのばれます。
ただまだ蒸気船があるからマシですね。18世紀以前は帆船、すべては風次第。
抗生物質があれば彼も死なずに済んだのに…。
サンドとともに暮らした日々、そのあともショパンは天使のような音楽を作り続けましたね。サンドはショパンに必要だったのかしら?とりあえず少しは寿命が伸びたのか縮んだのか…よくわからない関係です。
今、即興曲2番を弾いているのですが、ブラームスの晩年の作品みたいに美しいです。不思議です。
別れて2年ちょっとで亡くなってしまったんですよね。
しかも別れた半年後からイギリスツアーが始まり、作曲どころでなくなり、秋には起きられない状態になってましたし、別れた後にチェロソナタを完成させた後は大きな作品はほとんど書いてないと思います。いま最終回まで動画をせっせと作っていますが、やはり1840年代のサンドのもとにいた時期が一番充実していたんだなぁと思ってるところです。
私の祖母(既に亡くなっております)が、音楽と体育の教師だったそうですが、祖母が学生の頃は戦争中で、本当は音楽体育大学(現在で言うどの大学になるかは存じ上げません)へ進学したかったそうですが、当時は女で一つで東京へ出して貰える時代ではなかったそうです。私もピアノを少々習いましたが、エリーゼのためにを完全に(最初から最後まで)弾けるよになった時点で、自分には才能がないと悟りました(苦笑)。
立派なお祖母様だったのですね。
ピアノは続けておられますか?
フランスで、ショパンが結核のために差別を受けていたという話は知られていませんが、しかしこれは意図的に伝記から削除されていた可能性があります。ショパンがマヨルカ島で酷い扱いを受けたことは史実なのだろうと思いますが、マヨルカ島の人々「だけが」とくべつ酷い対応をショパンにしたかのような説明は不公平かもしれません。当時、結核が伝染病であることはフランスやその他の地域でも知られており、どこへ行っても似たような状況だったはずです。
そんな結核差別の中、献身的に何年も看病したジョルジュ・サンドは偉い人だったと思います。
やはりフランスでも結核に対する警戒心はあったんですね。サンドの言葉を拾っていく中でその点があまり見えてこず、ずっと不思議でした。ただ、スペインのほうが保守的な価値観だったように思うので、サンドのように女が諸事を差配することに抵抗感があったのだろうか、とか、フランスに入れば彼女の家名の威力も効かせられるので親切な扱いを受けられたのかもしれない、などとも想像していました。
この時点でショパンはまだ結核ではなかったとの判断が出たこともあったようで、診断基準の違いもフランスとスペインであったのかもしれません。
有益なコメントをありがとうございました。
悲惨過ぎて見るのが辛いです‥😨
最初からノアンかマルセイユにいればよかったのに…と思っちゃいますね